横浜市立大学 名誉教授 (亡)都筑卓司(恩師)
教育
このアインシュタインがかりに共通一次を受けたら、社会や語学で、場合によっては理科の物理以外の問題で、いい点をとることなどとても考えられない。そのため総点として、国公立大学への入学圏外であることは確かであろう。
ということは、今日の日本にもし天才がいるとしたら、共通一次の枠の外にはみ出している可能性がある。逆にいえば、日本の教育体制、受験体制は才能ある人材を押し潰していると批判されても仕方ないだろう。(「10歳からの相対性理論」ブルーバックス 1984年10月発刊)
考えること
このとき、なぜ雪は白いかを考えることは、--いささかオーバーな表現かもしれないが--生きていくうえでの回り道だろうか。たしかに、考えることなしに感覚的にだけ物事をとらえ、これに対する最小限の処置をとるだけで、人間は生きられるかもしれない。しかし、考えることにより、われわれの生活は別の意味での豊かさを増すのではあるまいか。そして、考えることと感じることは、けっして両立し得ないことではない、と私は思っている。
考えること、つまり知的な活動は別の意味での面白さを与えてくれる。小さくは知的好奇心の満足、大げさにいえば自然観の確立、というのもなかなかにあじわいの深いものである。(「科学の目」1978年4月発刊)
自然界の大きさ
しかし考えてみれば、理科年表のうちの大部分は、自然界の大きさ(長さ、体積だけでなく、あらゆる量の大きさ)はどれほどであるかが掲載されているのである。(「自然界の大きさ」1988年10月発刊)
物理学
物理学とは、机に向かって、ねじりはち巻で学ぶものでもないし、諸法則を機械的に暗記すればよいというものでもありません。四季こもごもの情緒とか、身近な事物などの中から、知らず知らずのうちに体得すべきものなのです。もともと物理学というのは、そういうところからスタートしているのです。(「物理法則集」ブルーバックス 1974年5月発刊)
中間の大きさ
極微の素粒子と広大な宇宙、あまりにも違うこの二つが、いずれも物理学の重要な研究対象であり、しかも両者の間に密接な関係があるのはたしかです。
それを考える人間の大きさが、両者の中間くらい・・・・という事実には、大きな興味がもたれます。いや、中間くらいであった、という偶然が、人間に素粒子と宇宙との両方を考えさせているのかもしれません。(「物理学はむずかしくない」1976年4月発刊)
星
しかし一般に、人間の「心情」というものは、必ずしも科学的な(言葉を変えていえば合理的な)ものだけではないのが事実のようだ。夜空に輝く星を見て、あの星は何光年の距離のもの、あちらに見えるのは何々星雲・・・・というような意識とは別に、一方では深夜にまばたく美しい真珠を想像し、貧しい人にも生活の困苦にあえぐ者にもまんべんなく照らす心やさしい自然の働きかけだと感じる心がある。もちろん星を天の宝石だと見る人も、科学のありかたを否定しているわけではない。自然を観察(あるいは観賞)する心のもち方が、各人各様でさまざまだということである。(「超常現象の科学」ブルーバックス 1977年10月発刊)
うたわぬ詩人
再び宇宙船の中。A船長は四人の隊員を見回して言った。
「きみたちは、うたわぬ詩人という言葉を知っているかね」
「・・・・・・・・」
「景色を見て美しいと感じる。あるいは、人の心のやさしさに感動する。つまり・・・・ふつうの人よりも遥かに詩的な要素を心に持っている。ところがそれを詩として書くことをしない。そんな彼をうたわぬ詩人というが、本当に彼は詩人だろうか」(「「場」とは何か」ブルーバックス 1978年8月発刊)
文転生
終戦直後、私はすぐ東京の旧制高校に出てきたが、同年輩の人たちの中に文系の学生がいたのである。もっともその年、高校では理科の学生をごっそり文科に移すいわゆる「文転」というのが行われた。文転生は急にいきいきとショーペンハウエルを読み、ニーチェを論じた。人生、人間の生きざまを思考し、数学や物理など、どこかとんで行ってしまった。私はこのとき、都会学生と田舎ものとの差をつくづく感じた。(「独創知」1987年1月発刊)
田舎もの
要するに田舎ものの余裕のなさだろう。一般読書(当時は岩波文庫。高校生の中には岩波文庫全巻読破などという豪傑がいた)や音楽・演劇などを楽しむことを知らなかった。自分の才覚のなさももとよりのことだが、このような田舎の土壌からは、文芸評論などという要素は、とうてい生まれてくるきづかいはない。とにかくこんなわけで初めから文系はお手あげ、すじみちを一つ一つ覚えてくればなんとかなる理系で生涯を通すことになった・・・・と考えるのがいちばん当たっているだろう。(「独創知」1987年1月発刊)
人情の機微
あの二人は愛し合っているのよ、愛し合っているけど態度には出せないのよ。こちらの二人は本当は憎しみもあるのよ、憎しみながら愛さずにはいられないのよ、となるともういけません。画面を見ていればすぐわかるじゃあないの、と娘や女房が言う。どうやら人情の機微というものは、感覚的に察知するらしい。当然ながら定量化、数式化とは全く別のファクターである。自分の鈍感さを指摘されていささか落ち込み、こんなドンなセンスでは女性にもてない、いやもてなかったのも当然だなあと反省する今日である。(「独創知」1987年1月発刊)
街の顔
私は人の顔は覚えないが(覚えられないという方が適切だろうか)、どうしたわけか街の顔はすぐ覚えてしまう。とにかく街は好きだ。その中心部のにぎやかな場所は大好きだ。子どもの頃から、知らない街にやってきて、家がずらりと並んでいるのを見ると、いささかオーバーな表現といわれるかもしれないが、胸がときめいたものだ。(「独創知」1987年1月発刊)
トポロジー
トポロジーの指向というものは一種の抽象化、もっとひらたく言えば、「遊び」ということになろう。遊びは遊びなりに、とことんまでつきつめていったところに、トポロジーの真価があるのではなかろうか。それが現実的であろうがなかろうが、数学者は新たな理論をどんどんうちたてていく。物理学、化学、生物学・・・・などが、この世の事柄を説明しりょうと努力であるのに対し、数学は新たなものの創造である・・・・といえそうな気がする。(「トポロジー入門」日科技連 1974年4月発刊)
意識の時間
もちろん「時間とはエントロピーの増大する向きをいう」との説は、多くの物理学者や化学者により提唱されたものであるが、プリゴジンほど、この問題についての論旨を明確に打ち出した人は少なかろう。そうして、さきに述べた意識の時間――つまり人間が、五感以外の何らかの感覚で、「ずいぶん時間がたったなあ」と思うのは、人間の生理としての新陳代謝に外ならないとしている。(「時間の不思議」ブルーバックス 1991年6月発刊)
宇宙の果て
今のわれわれには、遥か遠くにかすかに見えるあの星のもっと向こうはどうなっているのか・・・・そこにも宇宙の広大な空間があるというなら、そのまた向こうには何があるのか・・・・ということが問題になる。そうして、宇宙空間がどこまでも真っ直ぐに延びているのか、それともブーメランの軌跡のようにどこかで曲がって再び元へ還ってくるのか、などということを考えたり話題にしたりする。そのことに対してはたとえ現代の人間といえども余りに知識にとぼしいというのが現実だが、それはこの際われわれの失望の種にはしないこととしよう。(「はたして空間は曲がっているか」ブルーバックス 1972年11月発刊)
ラプラスの悪魔
ラプラスの悪魔は「見通し」は完全だが、将来を変えることはできない。すべてを知る神(あるいは悪魔)になった瞬間、自分は一年後に死ぬことがわかってノイローゼになったりしたら、元も子もない。どうやら人間の幸福は「知らない」あるいは「予測できない」というところにあるような気がする。(「10歳からの量子論」ブルーバックス 1987年9月発刊)
科学
科学とは、目的に到達することではなく、目的に向かって歩みつづける過程のことである・・・・ということがいえるかもしれない。まさにそれは人生そのものにも似ている。(「「力」の発見」ブルーバックス 1973年9月発刊 )
勉強
物理にかぎらず、なにごとにもよく勉強する現代の学生諸君は、提起された問題の、解答を探しだすことはすこぶる速い。しかし、学問というものは答の早探し競争ではない。提起された問題に対して、ときには自分自身でつくった問題について、ああでもない、こうでもないとじっくり腰をおちつけて考えることが勉強だと筆者は考えている。(「物理トリック=だまされまいぞ!」ブルーバックス 1981年11月発刊)
発展
しかし、物理学の発展は必ずしも一つひとつを証明したあとで、次に移っていくというものではない。
不明瞭な部分は一応そのままにおいて研究は先に進み、後になって正確な解釈を与える、ということもずいぶん多い。19世紀末に陰極線イコール電子の流れとしてしまったのも、このての論法による。そうして、こうした方法がまた、物理の進歩に充分役立っているのだ。(「10歳からのクウォーク入門」ブルーバックス 1989年5月発刊)
光
もう少し筆者に言わせてもらいますと「光の立場になって世の中を見れば」という発想法はなりたたない、さらにつきつめて言えば光はあくまで客体であって主体ではないということです。光に自分が乗ってとか、眼を光子にくっつけてなどということはありようがないのです。(「四次元問答」ブルーバックス 1980年4月発刊)
探求する心
このように自然界に対しては、人間は「神秘(あるいは美しさ)を感じる心」と「それを利用するわざ」とで接してきたが、いま一つ忘れてはならないのは「なぜか」と問う理性である。美しいと感じる詩的な心情も、自然を利用する工学的な技術も、人間だけのもつすばらしさである。しかし自然科学の最も基本となるものは「自然界はどのようにできあがっているのか」、「どうしてそのような現象を生じるのか」を探求する心ではあるまいか。(「物理質問箱」ブルーバックス 1976年12月発刊)
疑問
われわれは五つの感覚を通して自然現象をそのままのかたちで知覚するが、これを判然とした科学的な問題にする過程で、もっとも大きな能力が要求されることが多い。ここで科学的知識よりは、論理的な思考、ときには創造的な思索も必要になる。さらにこの段階で、一つの疑問が他の疑問を生み、未知の現象の発見や、埋没されていた法則の発掘にまで発展することすらある。
疑問が整理され問題になれば、あとは既成の物理学の法則や、一般科学的知識をこれにあてはめていく。ここではひろい知識と、それを適用する能力が必要になる。(「パズル・物理入門」ブルーバックス 1968年10月発刊)
時間
実際、どこのだれにとっても、「あなた」の時間は「私」の時間ではないのです。あらゆる人に、あらゆる物質に共通する時間などというものは存在せず、ただ、そのひと個人の、その物質固有の時間が各個に存在するだけだと、現代の物理理論は述べています。私たちはよく人の「顔」とはいいますが、実際にあるのは「アインシュタインの顔」、「ニュートンの顔」、「どこのだれがしの顔」という個別なものであって、「人の顔」などという実在はどこにもないのとよく似ています。実際、時計台が知らせる時刻は時計台のものであって、それを万人共通の時刻だと認めることは、「相対論以前の絶対時間」という誤った常識のとりこになっている、ということもできます。(「新・パズル物理入門」ブルーバックス 1972年3月発刊)
なかまはずれ
これに対して異民族との競争を知らなかった日本人は、おのれの田畑を耕すのに全精力を用いた。道具といっても、耕作器具とそれを運搬する車があれば充分である。村の人たちの意表をついた耕運機などをくつりだせば、とんでもない奴だといわれかねなかった。なかまからはみ出してしまう。アメリカ人だったらなかまはずれ大いに結構というだろうが、日本という土壌では、なかまはずれでは生きていけないのである。(「日本人の科学観」講談社 1984年4月発刊)
大学
いささか非現実的だが、極論を並べてみよう。大学へ自由に入学できるのが理想である。それなりの心がまえで大学の門をくぐるのならいいが、今ただちにこれを行えば東大一年生が何万人もできるかもしれない。しかし、改革を徐々に行い、大学という名称の有難味を減らしていけば(とはいっても、けっして学習や研究の有難味を減らすわけではない)、多少とも自由入学に近づくかもしれない。それよりも重要なのは(いささか言いつくされた言葉だが)個人個人の好みや能力に応じて学習なり実践なり、ときには社会の中に入っての活動をしていくことである。大学とか高校とかの名にこだわらず、学習所とか実験所とか考えるのがいい。そこで、今自分は何をしたいのか、何をなすべきかを充分に考える。(「日本人の科学観」講談社 1984年4月発刊)
非合理の美
日本のよさ、日本人の気持ちのあり方については別な面から見なければなるまい。自然を愛し四季の風景をめでて、花を器に刺して小さな空間につくられる枝葉のおりなす美しい線をつくりだす「心」は、他民族の思いも及ばない発想である。幾何学的な直線や曲線で散歩道を設計し、均一な芝生と一定の法則曲線に従って植えられた花壇で構成されるのが西洋庭園である。対称性や図形性から全く離脱して樹木と灌木と石と流水とで一面不調和につくられた日本の庭は、これを全体として眺めるとき、西洋庭園には見出せない落ち着きを感じるのはなぜだろう。不調和の中の調和というか、非合理の中の美といおうか。「日本人の科学観」講談社 1984年4月発刊)
宇宙
宇宙の偉大さは空間だけでなく、時間においても然りである。時間軸は閉じられたものか開いたものかは本文に述べたようにまだあいまいであるが、とにかくそれは過去から未来に、永く永く続いているものである。ながいと感じられる人間生涯の七十何年は九牛の一毛である。絶対的と思われた政治体制が、いつのまにかそっくり変化しているのは、多少とも長生きした人間のよく知るところである。ほんの短い時間のあいだの政治的、社会的、対人的な不合理のために、人間は全力を挙げて戦う。しかし、宇宙は、そんなことは知らぬげに、時をきざみ続けていく。
宇宙を眺めてその広さに驚くならば、時の流れの悠久なるさまにも、畏懼の念をもって接しなければならない。(「四次元の世界」ブルーバックス 1969年8月発刊)
巨人の星
「問題は大リーグボール2号ですね」
「私には、二号は一号と違って、量子論的なボールとしか考えようがないんです」
「量子論といいますと・・・・」
「一口にいえば原子や電子のような非常に小さなものの世界で通用する法則で、これは古典論とは全く違います。原因がわかれば、それから帰結される結果はピタリ一通りに確定している・・・・というような古典物理学の考え方は、原子の世界では通用しません。
野球ボールのような大きなものがどうして量子論になるのか・・・・これは全く謎ですが、星投手の投げる大リーグボール二号は、そっくり量子論にしたがっているようです」
「その量子論というのを、もう少しわかりやすく説明して頂けませんか」(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
不確定性原理
フェルミの言葉に続いてボーアは
「そう、わたしもフェルミ君と同意見です。敵軍の位置が判明したときには速度がわからない。逆に速度を調べてやると、敵艦の場所が全くわからなくなってしまう・・・・」
「量子物理学の世界ですって・・・・いったいそんな現象がありうるものですか?」
「あります。学者はこれを不確定性原理とよんでいます。南太平洋の島を守っているX国の陸軍も、おそらくこの原理をもとに行動しているんでしょう」
「X国軍がそんな新兵器を作りだしたとは信じられませんが・・・・わたしは開戦直前のX国の工業力、科学水準を十分心得ているつもりですが、わずか三年間でそこまで研究が進んだとはとても考えられません。しかも現在のX国の総合的な国力はかなり低下しているはずです」
「X国は潜水艦で、同盟国のドイツと連絡することに成功しています。おそらくアフリカの南を迂回して航行したものと思われます。このときX国は、ドイツから大きな『h』をもち帰ったのでしょう」
「え、大きな『h』ですって」(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
詮索
それでは、hはなぜそのように小さいのか?
これが物理学によって答えられる疑問であるかどうか、いささかあいまいである。自然科学は、元来あるがままの姿を記述していく学問である。hの値はそのまますなおに認めて、それから先のことは詮索しない・・・・という態度の方が、あるいは賢明なのかもしれない。しかしここで詮索をうちきるかどうかは、われわれが科学に対してどう構えるべきか、という姿勢の問題になってくる。(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
人間の大きさ
hは自然界に厳として存在する確固不変なものであり、その大きさを云々するのは無意味である・・・・というのが正論かもしれない。しかしだからと言って現実世界の不思議さがなくなるわけのものでもない。hが効いてくるオングストローム程度の大きさに対して、なぜ人間はその百億倍も大きい存在でなければならないのか・・・・と、さらに質問は人間の身体に向かって放たれることになる。(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
意思
生命をもたない物質はそとからの働きかけ(物理学でいう力)だけで動き、極めて下等な生物は外からの刺激に対して盲目的に反応するだけであるが、人間には更に選択的な意思が働く・・・・という事実は、いったいどう解釈すればいいのだろうか。(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
歴史
とにかく、あらゆる現象の基本的舞台である物質世界においてラプラスの悪魔が否定されたからには、その上にきずかれたさらに広大な世界においても決定的な運命論というものは影が薄くなってくる。人間の一生でも、その人間が集まって作りだす時の経過――つまり歴史――についても、このことは言えるだろう。歴史は必然であるという言葉をよく耳にする。はたしてそういうものであろうか?(「不確定性原理」ブルーバックス 1970年5月発刊)
進歩
なにしろ人間が月にいく時代になったんだ。だからこのあと十年、二十年とたったら、科学はどんなに進歩するのか、見当もつかない。そのころにはいまのおとなは頭が古くなってしまって、世の中で大活躍しているのはきみたちなんだ。(「ふしぎ科学パズル」講談社 1970年3月発刊)
タイムマシン
「あなたはすでに明日の新聞を手に入れました。だからわたしとしても話がしやすいのです。でなかったら、この変な機械をわかって頂くまで説明する根気はとてもありません」
「そうしますと、結局この機械は明日のできごとをさぐっているわけですね」
「そうです。望遠鏡とかレーダーとかは遠い所のものを調べる道具ですが、ここにあるものは未来をのぞく探知機、つまり時間の望遠鏡とでもよぶのがふさわしいでしょう。距離を眺めるのではなく、未来の時間を見るのです」
「とにかくその、時間の望遠鏡について、もう少し説明してください。どうしてたった今、明日のことがわかるのかということを・・・・」(「タイムマシンの話」ブルーバックス 1971年4月発刊)